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海外留学報告記

久保和俊(2003年卒)

Kantonsspital St. Gallen, Switzerland/ St. Elisabeth Hospital, Denmark[2017-2018]

平成15年入局の久保和俊です。平成27年10月よりヨーロッパはスイス、オーストリアと半年間臨床留学をさせていただきましたので報告いたします。前年に川崎恵吉先生がIBRA(International Bone Research Association )というスイスに本部を置き、定期的に研修会を開いては各国の若手の手外科医の教育を行い、さらには留学生をサポートしてバックアップしてくれるという団体組織からスカラーシップをもらい同じ病院を臨床留学としてまわられていたため私もその延長上と言っていいのか分かりませんがこの機会をいただきました。若い先生方もこれからこの組織にお世話になることがあるかも知れませんので名前だけでも覚えておいて損はないと思います。
まず10月某日、成田からタイを経由して約18時間という長い時間をかけてスイスに入りました。チューリッヒ空港で降りた後、電車にてSt. Gallen(ザンクトガレン)という中規模の都市に向かいました。この街は歴史が古く世界最古の図書館や由緒正しい修道院があり歴史的価値が高い建造物も豊富です。ここにあるKantonsspitalという州立病院にて手外科領域を中心とする臨床を学びました。ここはチューリッヒから電車で約1時間の距離にあり古い街並みですが近代と現代が混在したような不思議な雰囲気の街です。ちなみにスイスの首都はベルンです。チューリッヒやジュネーブではありません。人口は約16万人でスイスの中でも5番目に大きい州らしいです。スイスの北東部に位置し、ボーデン湖を挟んでドイツとオーストリアに接しています。スイスは知っていると思いますが永世中立国です。しかし日本の自衛隊と同じかわかりませんが軍隊と兵役があり、古くから傭兵という職業があったそうでヨーロッパで戦争があればそこに傭兵を派遣をして収入を得ていたというくらい有名です。話をザンクトガレンに戻しますが、ここはドイツ語が公用語であり一般人はあまり英語を話せません。スイスは南はイタリア語、西はフランス語がかなり話されているため様々な言語が使われているようです。実際学会などで色々な町に行くとフランス語であったりイタリア語であったりして一様で無かった印象があります。私がこちらに来たときはドイツ語などほぼわからなかったのと、片言の英語くらいしか分からなかったため最初のコミュニケーションが思った以上に大変でした。パンを一つ買うにも英語交じりのジェスチャーで何とかできたという感じでした。電車の乗り方もこのあたりは独特で切符を買わずとも駅のホームはおろか電車に乗ろうと思えば乗れてしまいます。でも本当は事前に行き先の駅と行く方法が決まった乗車券でないといけません。行く方法とはどういうことかと言うと、日本のシステムとはと違って行き方が何通りかあってもひとつの方法でしか行けません。つまりその方法以外で行くとルール違反になりキセルと同じ扱いになります。分かりやすく言うと旗の台から東急線で渋谷に行くとすると、自由が丘経由でいく場合と二子玉川経由で行く方法がありますがこのどちらかの方法でしか行けないという感じです。事前に買うしかないので買ったとおり以外で行ってしまい駅員さんに見つかると料金の数倍の罰金を払わされ次の駅で降ろされてしまいます。知らなかったは通用しないため旅行者がそうなっても同じ扱いになります。電車の中で切符は基本的に買えません。このことはスイスに行く前に川崎先生から注意するように聞いていましたので何とか間違わずにできました。ちなみに川崎先生はこれに引っかかり?寒い無人駅で途中下車させられ罰金を払わせられたということです。バスの乗り方も難しく言葉では説明できないくらい複雑なので現地に行かれる方は気をつけてください、悪気が無く間違ってもキセル扱いになるので罰金を払わなくては行けません。私は現地の数少ない日本人の提言で定期券を買って乗り降りを気にせず市内は自由に使えました。チューリッヒにはそこそこ日本人がいますが、ザンクトガレンにはあまりいないため各週で日本人教会に行きいろいろとサポートしていただきました。やはり日本人の優しさ、温かさは世界でも評価されているようで日本人とわかると優しく接してくれたような印象があります。でも実際は現地の人から見たらほとんどが中国人に見えるらしく区別はつかないみたいです(当たり前です)。知っている方もいるとは思いますがスイスはかなり物価が高いことで有名です。国民性も保守的な考え方の人たちが多く、他国から来る人が定住するにはなかなか大変な社会のシステムとなっています。そのためか自国のものを自国で消費するという風潮があります。ボーデン湖を渡ればすぐにドイツであり1時間もかからず行けてしまうため、さらに物価もスイスの半額程度という安さのため時間があるときはよくここまで来ていました。でもスイス国民はプライドからか高くても自国の物を買うという人が多いようです。もちろん安いドイツの店なども普通にザンクトガレンにあります。ベーシックインカムと言っていいのかわかりませんがスイス国民の基本的な収入は高く、たとえ清掃のバイトのような仕事でも日本円にして月に40万円以上はもらえるそうです。食事に関してですが、スイスと聞くとチーズをまず思い浮かべるでしょうがそのとおりで数多くの種類のチーズがいたるところに売っています。本場のチーズフォンデュをお世話になったGrünert教授ご一家にごちそうになりましたが、本場のチーズフォンデュはチーズと白ワインを煮詰めて四角く切ったブロック状のパンをつけて食べるスタイルです。日本で食べるそれと異なるのは永遠にパンだけということとワインがかなり入っているためすぐに酔います。なのですぐに飽きてしまいます。でも野菜や他の食材はないためパンのみという何とも贅沢な?素材の味を堪能しまくれます。ちなみにそのほかの食事はというと個人的には残念ながらあまり合うものがありませんでした。ソーセージは唯一と言っていいほどおいしかったです。

Kantonsspitalの外観と大変お世話になったGrunert教授。
スイスで初めて行った観光地ラインの滝 ライン川で唯一?といっていい滝。
スイス手外科学会に参加。開催地フリブールの美しく古い街並み。
フランスが近くフランス文化の影響を受けています。
神々しいMt. Santis、ロープウェイで頂上まで一気にいけます。
下はアルプスの少女ハイジで有名なアッペンツェル地方の風景と伝統衣装。

あまり生活のことばかり書くと何を学んできたんだと言われかねないので仕事面の内容を書きます。私が学んだこのKantonsspitalという病院は直訳するとそのまま州立病院という意味ですが、かなり大きく10棟程度のビルがあり各々にそれぞれの科と医局とがあり正確な数はわかりませんが1000床以上はあると思います。ここスイスでの医療体系はホームドクター制度であり、病気やけがをしたときはまずこのホームドクターにかかるのが基本です。本当に救急の場合は救急車を利用することができますがかなりの値段を請求されますので余程のことが無い限りこちらの人は使いません。ですのでこのKantonsspitalにかかるためには全て予約と紹介状が必要です。面白いことに予約は患者自らが取りますが、このときに診察時間も予約します。15分単位で予約できたと思いますが予約時間によって値段が異なります。外来は看護師がつかず医師のみが診察と処置を行います。カルテは電子カルテですがほとんど操作していませんでした。というのも診察後に紹介状の作成と診察内容の打ち込みを他のスタッフが行うためボイスレコーダーに内容を録音しておくだけだからです。要領はとてもよく全ての作業は分担で行われています。スタッフもよく教育されておりやるべき事をしっかり分かっています。手術室はとてもシステマチックであり、各手術室には前室なる小部屋があり、ここで麻酔の導入と覚醒がなされるため前の手術が終わりそうになると次の術者がよければGoサインを出して次の患者の導入がそこで行われます。ですので前の手術が終わると次の手術患者と入れ替えとなりたて続けに手術が行われます。わずかの合間に手術室補助スタッフや看護師が部屋の掃除と準備、そして機械の準備を行います。看護師も二人一組でいるため手洗いも交代で行い、外回りが次の手術の準備を行います。手術室の看護師は手術室専用の看護師でありとてもよく訓練されています。術中の機械の用意や次に何をやるかを常に考えているため流れるように行われていきます。術中の筋鉤引きはもちろんのこと、閉創時には術者が手をおろし助手だけになった場合は術野に入り縫合の手伝いまでします。ですので手術室の回転が良く手術室は14時でduty timeが終了になりますが、たいてい朝8時から執刀開始となった場合、橈骨遠位端骨折などの1時間程度の手術なら5件は行われます。緊急も毎日受け入れているため外傷が多いですが時間外でも手術にいたるまでの時間はとても早いです。私の研修先のDepartmentはHand and Plastic surgeryであったため手の外傷が多くmicro surgeryや皮弁、植皮など結構な頻度で行われています。ボスであるGrünert教授は穏やかで人間性もすばらしく手術も大変お上手です。時に手洗いをして手術に一緒に入ることがありましたが、骨折の固定方法や疾患に対する手術方針など質問や議論をさせてもらう機会が多くありとても有意義な時間を過ごさせてもらいました。結論的に言うと同じ外傷、疾患に対して根本的な考え方は同じであっても実際おこなう術式、アプローチ方法は結構違います。ヨーロッパ人の考え方と日本人の考え方や生活様式、疾病に関する捉え方の違いがこれに影響を与えているような印象でした。こちらの医師たちは若い先生も多いですがかなり真面目で熱心です。時間があれば上級医の手術の見学にきては術中いろいろと質問し、教えを請うていました。そんな彼らと空き時間にカフェしながら医学談義に熱中したのも良い思い出です。手術室のduty timeが終わると外来が始まりますが、外来日で無い場合はプライベートクリニックに行く先生方が多いようです。私はGrünert教授についていたため子供病院に往診に行き、外来について診察の仕方などを教わっていました。それでも時間ができた時にはトレーニングルームで顕微鏡を使って縫合の練習をし、自主勉強をしていました。
スイスの冬は日照時間が短くあっという間に暮れては日の出も遅いため家を出るときと帰るときはどちらも暗い状態でした。帰宅後に食材を買いに行こうにもスーパーなども19時には閉店してしまうため余裕をもって買い物などできないことが多々ありました。土曜日は、仕事は休みですが半日程度で店も閉まってしまうため日用品を購入することには比較的苦労しました。それでもやはりヨーロッパといえばサッカー熱が高くこの街も例に違わずプロサッカーチームがあります。週末に地元の競技場で試合があるときには観戦に行きました。グッズなども購入してにわかファンを演じていましたがサポーターが熱い熱い、サポーター同士が一触即発な雰囲気も何度もありました。12月はクリスマスで街が一色になります。病院には幾つものツリーがあり各々デコレーションされイルミネーションが幻想的な雰囲気を醸し出しています。ようやく慣れてきたかなというところであっという間に3ヶ月が過ぎてしまい次なる目的地に移動する時期となりました。

FC St. Gallen vs 柿谷曜一郎のいるBaselとの試合。にわかファンも熱狂。
クリスマスイルミネーションの様子。街はクリスマス一色になります。
首都ベルンの街下が一望できる丘にて。スイスの国会議事堂と歴史的価値のある時計台。

年が明けて2016年1月2日に夜行列車でお隣のオーストリアはウィーンに移動しました。ヨーロッパ圏の新年は日本とは違い元日はさすがに休みですが2日から普通に仕事を始めるところが多いです。1月よりウィーンの中心に近いところにあり外傷専門病院であるLorenz Bohler Hospitalにて研修を始めました。名前をきいてピンと来た方もいると思いますが、この病院は踵骨骨折で有名なBohler angle(ベーラーアングル)のBohler先生が建てた病院です。本当はoにウムラウトが付きますが表記の問題でoのままですいません。ここは規模はそれほど大きくありませんが名前のとおり外傷専門で上肢、肩、膝、下肢、脊椎とチームが分かれています。加えて脳外科医、腹部外科医が数名いてこれらの手術が必要なときは近くにあるAKH(正確な名前は忘れてしましました)という超大規模病院などに搬送しています。ちなみに伝聞ですがこのAKHという病院は3 000床以上あるらしくヨーロッパで最も大きい病院らしいです。私はこの病院にいる期間はずっと上肢班である先生に帯同していました。
ここではMartin Leixnering先生とChristoph Pezzei先生の下で研修させていただきました。このお二人は手外科の専門医でこのオーストリア周辺ではオーソリティーの先生方です。先のIBRAの主要メンバーで研究や教育にも熱心であり定期的に研修を開催しています。ドイツ語圏を中心としたヨーロッパのあらゆるところから若い医師が参加しています。私は運よく三度も参加させてもらい(しかも無料で)Cadaverを使って実際に解剖してみたり外傷モデルを作成して整復固定するなど大変有意義な時間を過ごさせていただきました。また、この先生方は病院でもほぼトップの立場の先生ですが当直も定期的に行っています。しかもほぼ毎回緊急手術をしていますし、定期で入らない外傷をあえて自分の当直のときにまとめて行うという何ともタフな先生です。この先生方が当直のときは一緒に当直していましたが24時間フル活動していました。いつ寝ているんだろうというくらい手術をしては緊急患者をみてというようにめまぐるしく動いていました。どこでもそうですが手外科は新鮮外傷のみを扱うわけではないので例に違わずこの病院でも手外科領域の変性疾患はとても多く手術を行っています。しかもものすごく長期でフォローしていることもあり症例数が半端ではありません。すべてデータベース化されており、舟状骨骨折だけでも軽く4000例を超えています。橈骨遠位端骨折などそれ以上ですのでこの伝統と実績は疑いようもありません。個人的に興味深いと思ったことは日本ではあまり頻度が多くない手根不安定症の手術症例が多いということです。まず誤解が無いように言っておきますがこの先生方や病院の方針は何でも手術をするという訳ではなくてなるべく保存で治そうとする考えが第一です。ですから明らかに手術適応というもの以外の症例はまず保存的加療を試みます。ギプスやシーネを用いることが多いですがここのスタッフはギプス巻きがものすごく上手です。職人的な仕事をする専用の人もいて常時若い医師が勉強しながらおこなっています。しかもただ巻くのではなくモールディングや長さ、快適さもちゃんと考慮して巻きます。プラスチックギプスも使いますがおおかたは石膏で巻きますからここにギプスにかける熱い思いが伝わってきます。さて手根不安定症ですが舟状骨骨折が多いことからも分かるように偽関節化した舟状骨骨折も多く不運にもSNAC wristになり、他の原因でSLAC wristになった症例が多く見うけられます。このような場合、ステージによって治療方針が変わります。これは日本でも同じですがこのステージがかなり進み、急速に悪化したような症例がこの病院には多いです。ですので日本では考えられないほどの数の手根不安定症の患者がおり毎週のように手術をしています。その中で得られているclinical evidenceが術式の正当性を裏づけしており、ステージにもよりますが近位手根列摘出術PRC(Proximal Row Carpectomy)がここでは標準術式としておこなわれていました。面白いことにすぐ隣のスイスではPRCよりもFour Corner Fusionを好んでおこなっていました。どちらも一長一短がありますが、いずれにせよかなりの症例数の手術を勉強させてもらいました。使えるインストゥルメントも豊富で日本では使えないものも多々あり、これが日本で使えたならなあと言うように羨ましく思ったこともよい思い出です。
ウィーンでも朝は早くから始まり7時30分から全体のカンファレンスをおこないます。前日の急患と手術症例の提示、入院患者のプレゼンテーションをおこないます。これは日本でも同じですがこの病院ではなぜだか分かりませんが昼にも同じカンファレンスをおこないます。つまりは1日に2度のカンファレンスをおこなうという訳です。この病院も14時には基本的にはduty operationが終わるという名目で運営されています。実際はもっと長く手術を行い、緊急に次ぐ緊急というかたちで手術がおこなわれています。実はこの病院には規模のわりには多くの麻酔科医が常在しておりいつでも緊急OKという状態なのです。手術室は4つしかありませんが麻酔科医は10人以上います。Dutyが終わった医師たちは近隣のプライベートクリニックにバイトに行きます。一部の医師は当直として残りますが夕方には院内はかなり閑散とします。オンとオフがはっきりしているのが良くも悪くもヨーロッパ式なのでしょう。手術も終わり時間ができた私は自分でデータを集めたり、そのほかのできる仕事をしていました。先にも書きましたがIBRAが主催する研修会が定期的にあり大体1~2ヶ月に一度程度で開催されています。この組織のプレジデントはHintringer先生でヨーロッパ手外科界では超有名人です。彼の論文や功績は上肢の領域では多く引用されています。彼は背も高くとてつもなくダンディーでイケメンです。しかし彼はものすごくスピード狂で彼の運転する車の助手席に乗せてもらったことがありますが、街中でも100Km/h程度出すため何度死ぬかと思ったか分かりません。本人は普通のことのように平然としていてそれが逆に怖かったです。セミナーがあるとHintringer先生、Leixnering先生、Pezzei先生、それにドイツからKrimmer先生もいらっしゃり午前に講義、午後にハンズオンセミナーをして教えてくださりました。講義はもちろんドイツ語ですがスライドを使っておこなうため英語しか分からない人でも分かりやすく、さらに無料で参加させてもらえたこともありものすごく有意義でした。ヨーロッパ式のブレイクタイムにはコーヒーと茶菓子とフルーツが用意され参加者同士で気軽に話せるというちょっと日本では味わえない雰囲気を堪能できました。ちなみにLorenz Bohler HospitalでもスイスのKantonsspitalでも日本人はおろかアジア人は一人もおらず、さらには黒人も1人か2人程度しかいなかったため私は周りから見れば異質な人間だったと思います。でも差別や排他的な状況はまったく無く皆さんが親切に受け入れてくれました。

ホーフブルク王宮とシュテファン大聖堂。王宮の周りは馬車で観光できます。
シェーンブルン宮殿とその庭園。夏には色鮮やかな草花が庭園を彩る。
オペラ座でバレエの鑑賞。文化人になった気でいる勘違い野郎。

ここでの生活はもちろん病院が中心でしたがプライベートタイムは買い物に行ったりジムに行くなどの時間がもてました。スイスのときはやや閉鎖的に感じていた日常生活もここウィーンでは比較的開放的でした。いろいろな国々からの人々がやって来ているためインターナショナルな街が今のウィーンです。治安に関しても夜中は少し不安なところもありますが普段は比較的安全で買い物に行くにせよ電車に乗って市内ならどこにでも行けます。チケットの買い方はスイスのときと同様であるため定期を購入していました。ちょうどヨーロッパの移民問題もあったため時々は心配なこともありましたが全体的には問題なく生活できました。地下鉄や電車網がしっかり整備されており移動も簡単にできます。しかしドイツ語で書かれた駅の掲示板は駅名以外分かるはずも無く行き方は調べないと行けません。さて、一般的にウィーンといえば音楽と芸術の街という印象が強いと思いますが、近代的な建物も結構あり伝統と芸術に加えて近代化された街並みがうまく融合しています。ヨーロッパの中でも思った以上に都会です。ドナウ川が街の中心を流れそれに映えるように歴史的建造物やバロック建築が中世ヨーロッパを思い浮かべさせてくれます。有名なオペラ座でバレエを見たり、モーツアルトが学んだという場所で個人規模のコンサートを聴いたりして歴史を感じる体験もできました。ちなみにモーツアルトはウィーンから電車で2時間くらいのザルツブルクという街で生まれ育っています。ここにも観光に行きましたがかなり歴史を感じる街でした。ウィーンで体験できた最も印象に残っている出来事といえば王宮デビューをしたことでしょうか。BALという年に数回おこなわれる王宮での舞踏会になぜか参加したのです。実はこのBALというのはとても人気があり普通はチケットが手に入りません。偶然にもこちらで知り合ったウィーン在住の日本人の方の伝でチケットを購入するチャンスがあり手に入れることができました。男性はタキシード、女性はドレス限定というドレスコードでしたのであまり衣服を身に着けることが好きではない?私にはかなりハードルが高かったです。タキシードは現地で知り合った友人に借りて丈と裾を手直ししてもらい何とかかたちにはなりました。妻はしっかりドレスとハンドバッグを購入していました。当日は夜7時から王宮に参加資格がある人たちが集まり、みんなタキシードにドレスという恰好の人々が1000人以上はいたため圧巻の光景でした。それにしてもヨーロッパ人はこういう服装が似合うし映えます。美人な女性や恰好いい男性が多くて萎縮してしまいそうでしたが、アルコールが入ればこちらも日本男児、踊らないわけにはいきません。生演奏の音楽に合わせて踊ったりしてその場の雰囲気を満喫しました。皆さん安心してください、脱いでません、ずっとちゃんと穿いてましたよ(笑)。地元の高校生も毎年社交界デビューする場がこのBALであり女性は純白のドレス、男性はタキシードという恰好で王宮の真ん中のレーッドカーペットでペアで踊ります。なので白のドレスはこのデビューする高校生だけが身に着けてよい色であり他の女性は白以外のドレスでなければいけません。一生に一度あるかないかの貴重な体験をさせてもらいました。

BALがおこなわれた夜のホーフブルク王宮と社交界にデビューする高校生たち。
一著前にポーズをとるがウェイターにしか見えない?
夜の7時から朝の5時頃まで宴は続く。ちょっと疲れ気味?

オーストリアの伝統的な料理といえばシュニッツェル、つまりカツレツです。豚肉をこれでもかと叩いてのばして衣をつけて揚げる料理です。何度か食べましたが味は個人的にはまあまあですがかなり量が多いのと油を使っているため食べすぎはかなりキツくなります。お店も普通に8時過ぎまで開いており、店によっては遅くまで開いているところがあります。やはりヨーロッパだけありいたるところにカフェがあります。ウィーンの中心部には観光客も多くひっきりなしに往来しています。こんなときカフェでお茶をしながらスイーツを食べるというのが乙なものです。私は恥ずかしながらカプチーノというものをあまり飲んだことが無かったのですがスイスに着いたばかりの頃、こちらの先生に本場のカプチーノをすすめてもらってから完全にハマりました。ウィーンに来てからもバカのひとつ覚えでこればっかり飲んでいました。さすがにスイーツは味が甘すぎてあまり食べられなかったのですが日本女性は好きな方が多いと思います。Leixnering先生にはいろいろ連れて行ってもらい、モーツアルト関連の個人演奏会やウィーンのレストランなどこちらの作法なども教えていただきました。彼は医療が生活の中心にあり、いつでも医療のことを考えています。毎日4時間程度しか睡眠時間をとっていないようですが元気でパワフルです。良い意味で妥協ということを嫌い自分の信ずる術式、治療方針を邁進していくという医療従事者の鑑というべき姿勢で治療に望んでいます。それでいてユーモアもあり悪ガキのように笑ったりとぼけたりする一面もあり憎めない人間性をもっています。
ここでもあっという間に3ヶ月が過ぎてしまい帰国する時期になってしまいました。妻は訳あって私より1週間先に帰国しましたので最後の1週間は自炊もしなければならないし荷物の整理もしなければならなかったため慌しかったですが、それよりもう帰国なのかという寂しさのほうが大きかったです。実は3月に一時帰国後、4月からアメリカはミネソタ州にあるMayo Clinicに基礎研究目的に留学することが決まっていました。ですからこの原稿を書いている今現在はMayo Clinicにて基礎研究をしています。この報告はまた次の機会にいたします。 最後になりましたが、人事的にもキツキツの状態のなか私が留学に行くことを快く許可してくださった稲垣教授、豊島医局長に心より感謝いたします。現在もまだ留学中の身でありますが引き続きよろしくお願いいたします。

ザルツブルク城から見下ろすザルツブルクの街と下から見上げるザルツブルク城。
黄色い建物はモーツアルトが生まれ育った生家。
ウィーンでモーツアルトにゆかりのある小さなホールで聞く贅沢なミニ音楽会。
お世話になったMartin Leixnering先生とChristoph Pezzei先生。
ダンディーなHintringer先生と穏やかなKrimmer先生。
お世話になったLorenz Bohler Hospitalのみなさん。